lundi 24 septembre 2007

「先送り」 再々考



モンテーニュの考えを読みながら、以前に 「ハンモック」 で書いた 「先送り」 のことが蘇り、ずーっと頭にあった。

先送り Esprit critique (2005-06-04)
「先送り」 再考 ATTENDRE JUSQU'A CE QU'IL MURISSE (2006-05-05)

私の場合、モンテーニュのように懐疑主義という形で意識していたわけではない。おそらく怠慢の成せる業ではないかと思っているが、判断の先送り、あるいは決め付けをしないということをずーっとやって来たように感じて、一時はそれでは駄目なのではないかとも考えた。しかしある時、それは必ずしも悪いことではな かったのではないかという思いに至る。その背景には、最終的な判断は文字通り最後の最後でよいのではないか、その前には判断をせず、とにかく身を晒すことが大切なのではないかという無意識の意思があったように思う。モンテーニュの逆説のように、その方が逆に軽やかに身を動かせる。判断は一番最後に来るのだから、それまでは全く自由でいられるということになる。ひょっとすると、そう状態ではいられなくなることを恐れて判断を忌避していた、あるいは何でもありという状態を維持したいがための先送りだったのかもしれない。いずれにせよ、最後にそれまで身を晒して得たものを解きほぐして、実はこういうことだったのかと理解する。それが一番深い理解に達するのではないか。そういう絵を描いていたような気がしている。今、モンテーニュがすぐそこに感じられる。

振り返ってみると、1年に1回 「先送り」 を考えていることになる。これからも折に触れ、そのデッサンを修正していくのだろうか。



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