jeudi 20 septembre 2007

モンテーニュ (V) 王国を救う Préserver le royaume




彼はカトリックとプロテスタントの間の殺し合いをどうしても避けなければならなかった。それはボルドー周辺の平和だけではなく、全王国を崩壊から救うことを意味していた。アキテーヌ地域の首都であるボルドーは南部を押えていたので、もしここが混乱に陥るようなことがあると、やがてフランス全体が倒れることになる。モンテーニュが間違って市長になったと考えるとすれば、大きな間違いである。彼は責務により有名になったわけでもなく、退屈から市長になったわけでもない。1583年、1期目の2年が終った時、彼がその立場にいることによってのみ平和がもたらされると確信して2期目も出馬する。もしそれが極端な負担になるようであれば、彼の住処に戻るであろう。

しばしば忘れがちになるのだが、彼は非常にスケールの大きな政治家であり、控えめではあるが有能な重要人物の一人であった。住民や学校、貧しい人々の状態を気に掛ける市長だっただけではなく、王の顧問であったことも忘れてはならない。アンリ3世とは文通し、ローマでは法王に迎えられている。カトリーヌ・ド・メディシス Catherine de Médicis はナバラ王であったアンリ Henri de Navarre をプロテスタントに改宗するように彼に依頼している。それによって誕生したアンリ4世は、モンテーニュに財政的支援を申し出て顧問就任を依頼する。しかし、彼は断った。

「私はほんの少しの自分も捨てることなく、公職の責務を果たすことができた」 と告白しているように、争いの中にあっても自分を見失うことなく務めうることを示した。それだけではなく、彼自身が語っているように、人を裏切り、嘘で固め、殺すことを求めるところがある人民のやり方を好まず、均衡の取れた機動性や多様性のある政策を行う術を知っていた。

これまでをまとめてみると、どうも学校で教えられるモンテーニュの姿は歪められていたようだ。行動の人であったのに瞑想の人とされたり、書庫に引き篭もっていると言われたのに、しばしば外に出ていた。彼のことを、早くに隠居した温厚で (débonnaire) 人のよいモラリスト (moraliste bonasse) 、愚痴っぽい夢想家 (rêveur dolent) として描いてきた。しかし、彼を手厳しい哲学者、考えられているよりも根源的で、難解だが一貫性のある思想家として見直さなければならないだろう。



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