dimanche 13 janvier 2008

文章の造り方



現在、ミニ・メモワールをいくつか抱えたままの生活を送っている。この日が本当の最後ですという最後通牒受け取り、やっとその気になってきたが、それができるかどうかはその日にならなければわからない。まさに綱渡りの心境である。

ところで、この過程で文章を書くということについて考えることがあった。振り返ってみて、文章を書くということを習ったことはあるのだろうか。中学、高校と国語の時間に作文をしたことは覚えているが、書き方を習ったという記憶ははっきりしない。もし私が文章の書き方を習った、あるいは文章はこのように書くのかということを自覚させられたのは、ニューヨークにいた時ではないだろうか。

当時私はニューヨークの研究所に勤務しており、研究成果を論文にまとめる作業を最近亡くなられたイギリス人の恩師、EAB 先生(ハンモックでも何度か触れている) とする機会があった。それは、私が準備した原稿を彼が直しながら (殆ど破壊) 書き進むというやり方なのだが、その作業を見て、文章とはこう書くのかという一つの見本を体得することができたように感じた。言葉を選び、言葉の塊を前後に動かしながら文章を作っていく工程は、英語の構造がどのようになっているのかということに注意を向けさせるばかりではなく、文章を構成する部品をどのように組み立てるのかが文章を書くということであるという一つの哲学を知らず知らずのうちに教えられていたようである。当時は手書きで進めるため、それがより具体的にわかったということでもある。それ以来、英語のみならず日本語についてもこのやり方になっていたようだ。もちろん、最初から完成された文章を頭で作り、吐き出した後は一切直す必要がないようにするのが文章の達人だ、という考えもあるとは思うが、、。

当然のことではあるが、フランス語でもこのやり方になっている。部品を用意し、それを自分の中でフランス語らしいと思える文体に合うように配置換えをしながら文章を造っていく。最初から自然に出てくる文体の蓄えがないためにこうなるのだが、当然のことながら時間がかかるのである。それを今必死にやっていることになる。



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