jeudi 31 janvier 2008

パリの女子高生と



今朝、外に出ると小雨が降っていた。いつもであれば傘を取りに戻るところだが、そのまま出かけた。最近、仏版ブログにパリの人はどうして雨なのに傘をささない人が多いのだろうか、と書いたばかりだったので、パリジャンを気取ってみようということだったのかもしれない。あるいは、あと1日でひとまずメモワールから解放されるためか、どうなるのか未だわからないのに、なぜか心が浮き立っていたためかもしれない。

ところで、その仏版ブログの記事にパリの高校に通うという女子高生からコメントが残されていたことから5-6回のやり取りがあった。

Il pleut maintenant mais ....

人生にこれから飛び立とうとしている期待と不安を感じながら自らの進路に悩んでいる時に、とんでもない決断をしてパリにいる大人がいるということを見つけて、話をしたくなったようである。その中で今読んでいるバルザックの小説のことを書いていたり、この地球がこれからどうなるのか、大人にはこの現実がどう見えているのか、などと高校生ならではの感受性が感じられ、気持ちのよい交換となった。最後には、別の記事のフランス語の誤りを気を使いながら丁寧に訂正までしてくれた。

"La visite de la fanfare" C'était un petit cadeau.

本当に誰が読んでいるのか想像もつかないのがこの世界。そして予想もしないようなことが待っているのもこの世界である。今回のやりとりはひょっこりと飛び出してきた、かわいらしい贈り物というところだろうか。苦しみの中、清々しい余韻を残して風が吹き抜けていった。



荒野をゆくが如し



昨日、活力とユーモアと人をエンターテインできる精神に溢れた哲学科の若手と話をしながら、こちらに来る前に考えていたことを思い出していた。それは、以前ハンモックに書いた 「過去の自分を現在に引き戻す (VIVRE AVEC LE MOI DU PASSE)」 という記事にもつながることであるが、こちらで生活することは若き日の自分を横に見て、若干の感傷も抱きながらともに歩むような感覚ではないかと思っていた。それはどこかで、余暇を楽しむということにも通じるものであったかもしれない。しかし、実際にこちらで学生生活を始めると、そうではないということに気付き始めていた。そして昨日、学生の皆さん (と言っても先輩) と長時間一対一で話をしている時、それは全然違うということがはっきりと自覚できるようになっていた。そこには感傷の感情はなく、いつか来た道を歩くという感覚でもなく、全く新しい荒野を当て所もなく歩き始めているという図に近いものであった。しかし、その先にはぼんやりとして捉え所はないものの、先に歩みを進めることを強く促す何かが見えているような、そんな気がしていた。

今朝メールを開けると、早速そのうちの一人から参考文献が4編ほど届いていた。



mardi 29 janvier 2008

同じ目の高さで



今日は、午後から実りの多い2つのランデブーがあった。いずれも指導教授から会うように勧められた人である。ひとりは先週セミナーをやっていたドクターコースの学生さんで、もうひとりは最近ドクターを終えたばかりの人である。最初の学生さんとは近くのカフェで、二人目はセミナー室で、それぞれ2時間ほどになったが本当にあっという間に過ぎてしまった。

彼らにとって私の道行きが興味深いと見えて、最初から興味津々でいたずらっぽい目をしながら聞いていた。本題はこれからのテーマについて。その際にどのような人について読んで行ったらよいのか、注意すべきことは、さらに実際に会った方がよい人も5-6人紹介された。日本の現状は把握していないのだが、こちらの状況を聞きながら、科学の現場と哲学との距離が非常に近いという印象を持った。あなたのような興味の持ち主にとってパリは理想的な町 (の一つ、と後で付け足していたが) ですよ、との言葉が出ていた。

とにかく若く、好奇心旺盛な若者と同じ目の高さで話ができるということは素晴らしい、と改めて感じ入っていた。こちらの若者は年齢を殆ど気にせず、同僚に対するように話をしてくるので気分がよくなるが、今日もその気分をたっぷり味わわせてもらった。



lundi 28 janvier 2008

旧正月 Nouvel An Chinois



この言葉を思わず思い出してしまった。そのお祭りが近いからではない。自らの正月が未だ明けていないという事情からだろう。今までは、中国暦による少し遅い正月で、チャイナタウンではそのお祝いがある日、くらいの意味で使っていたこの言葉の意味するところをウィキに尋ねてみることにした。

旧正月

 「旧暦1月1日は、通常雨水 (2月19日ごろ) の直前の朔日であり、1月22日ごろから2月19日ごろまでを毎年移動する。旧暦で平年だった年は翌年の旧正月は約11日後退し、閏月があれば約18日進む」 とのことで、年によってかなり大胆にその日が異なってくることを初めて知る。また国によっても違ってくるようだ。今年は2月7日とされている。


ところで、大学の方は現在試験休みで、今週はその最後の3週目に当たり、来週から後期が始まるはずである。これまで何度も触れているミニ・メモワールだが、全部で4編、それに1年目のメモワール (本編?) の途中経過とあわせて5編の論文 (10-20ページ) を仕上げなければならない。すでに1編は2週間ほど前に提出した (なぜか締め切りが早かった)。残りの4編のうち、3編は今月一杯が締め切りで、残りの1編は丁度旧正月が締め切りとなっている。つまり、すべてが無事に片付くと晴れて正月を迎えることができるということになる。


その前に、この数日で2つを仕上げなければならない。いつものことだが、なぜ普段からやっておかないのか、という疑問と叱責の声が聞こえる。締め切りこそ想像力の源であるというようなことを言った作家?がいたようだが、確かにこういう機会でもなければ考えないようなことを考えてまとめるという経験は得がたいように感じているので、この苦しみを甘んじて受けているところだろうか。学生時代のように、何とか形を作って切り抜けましょうなどという考えが生れてこないところをみると、どうも本当に学びたいと思っているようである。



dimanche 27 janvier 2008

カラヤン生誕百年記念コンサート、あるいは Renaud Machart



今年はヘルペルト・フォン・カラヤンの生誕百年にあたり、記念行事や記念の品が出回るのだろう。パリではその記念行事が早速行われたことをル・モンドで知る。この25日に小沢征爾指揮ベルリン・フィル、バイオリンがアンネ・ゾフィー・ムターという組み合わせでコンサートを行った。出し物は、チャイコフスキーの交響曲第6番悲愴とベートーベンのバイオリン・コンチェルト。

Concerto pour violon et orchestre de Beethoven et Sixième symphonie, Pathétique, de Tchaïkovski

Anne-Sophie Mutter, l'Orchestre philharmonique de Berlin et Seiji Ozawa

ル・モンドの記事はルノー・マシャール (Renaud Machart) という人が書いている。

そのタイトルが 「カラヤン生誕記念のパリ・デビュー失敗」 とあり、酷評している。


書き出しからして、これほど退屈したベートーベンは記憶にない、というから手厳しい。同じくらい耐えがたい記憶が蘇ったようだ。1999年の同じムターの演奏が (この時は、クルト・マズア指揮のパリ管弦楽団と)。とにかく、バイオリンが始ると作品が退屈なものになってしまうと言う。フレージングは醜く、正確さを欠き、常に途轍もない冷ややかさとマンネリズムで演奏する。二音の間の移動の慎みのない品の無さ・・・と続く。よっぽど、彼女の演奏が肌に合わないらしい。

小沢の悲愴についてもその手を緩めない。この悲愴は重量感、存在感はあるが、そこから飛び立つことはない。緊迫感もなければ、内奥のドラマもない。小沢は2004年にパリで同じ悲愴を演奏しているが、その時も同じ欠落があった。決定的に。

こういう評を読むと、自分でも聞いてみたかったという思いが生れてくる。もし会場で聞かれた方がおられましたら、ご意見を伺いたいところですが、、

-------------------------
On ne se souvient pas s'être autant ennuyé à l'écoute du Concerto pour violon de Beethoven, que jouaient, le 25 janvier, Salle Pleyel, à Paris, Anne-Sophie Mutter, l'Orchestre philharmonique de Berlin et Seiji Ozawa en hommage à Herbert von Karajan, à l'occasion du centenaire de la naissance du chef d'orchestre. Mais si : un souvenir aussi accablant nous revient : c'était Mutter, déjà, avec Kurt Masur et l'Orchestre de Paris, en 1999. Le tempo du premier mouvement est très lent mais dense. Ozawa, qui dirige de mémoire, même les concertos, donne un sens à ce choix, probablement dicté par la violoniste. Mais lorsque celle-ci entre, l'oeuvre s'enfonce dans l'ennui.

Les phrasés de Mutter sont laids, sa justesse imprécise et elle a toujours dans son jeu cet extraordinaire mélange de froideur et de maniérisme. Et toujours cette indiscrète vulgarité dans un glissé entre deux notes, une attaque par en dessous ou un vibrato qui chatoie comme une ondée de parfum à la violette bon marché.

Cette jeune femme a fait ses débuts, adolescente, avec Karajan, qui l'a lancée. Depuis elle n'a pas quitté l'orbite de la gloire. Ce dont lui témoigne le public.

On se disait que la faute de ce Beethoven pachydermique revenait à la violoniste et non au souple Ozawa (qui a débuté en assistant Karajan il y a presque cinquante ans) qu'on a si souvent aimé au concert ou à l'opéra. Ce soir, sa Pathétique, de Tchaïkovski a du poids et de la présence, mais cela ne décolle pas. Nulle urgence, nul drame intime. En 2004, Ozawa avait dirigé à Paris cette même Pathétique et l'avait aussi manquée. Décidément.

   (LE MONDE | 26.01.08 | 15h17)



samedi 26 janvier 2008

Bulletin Cubart ー Silvio Rodriguez



大学からもらったメール・アドレスがある。そこを開けてみるとキューバを中心としたラテン文化についてのかなり長い紹介メールが届いていた。そのタイトルが今日のお題となった。その中から何人かに触れてみようという気になり、彷徨った結果見つかったものを紹介したい。

ひとりはキューバの歌手シルヴィオ・ロドリゲスさん。非常に有名な人のようだ。彼の歌を2曲ほど。

Silvio Rodriguez (San Antonio de Los Baños, Cuba, 29 de noviembre de 1946 -)










それから彼のサイトを歩いている時に、アルトゥーロ・サンドヴァールさん (Arturo Sandoval) のトランペットに出会った。






キューバの画家アントニオ・カネ (Antonio Canet) さんが66歳で亡くなったというニュースがある。彼の作品をここで少しだけ見ることができる。


それからもうひとり紹介したい人がいる。ゴンザロ・ロハスというチリの詩人のことが出ている。2003年のセルバンテス賞をもらっている御年90歳である。色気たっぷりの彼のサイトが気に入った。ただ、英語への訳も非常に少ないようだ。フランス語訳でと思ったがほとんど手に入りそうにない。仕方なく、わずかに残っていた英語訳を注文することにした。彼に関する情報をお持ちの方はお教え願いたい。

Gonzalo Rojas (Lebu, Chile 20 de diciembre 1917 -)

     
この週末はラテンなスタートになった。この調べに乗って宿題を片付けたいところである。


---------------------------

(18 juillet 2008)

今、マグナムによるAIDSのドキュメンタリーを見ていたが、急に 「体がひとりでに動き出すような音楽」 "Por Quién Merece Amor" を聞きたくなりここに辿り着いた。しかし、それが見つからない。シルヴィオ・ロドリゲスさんの元歌を聞いてみると全く印象は違い、しっとりした歌だったようだ。ロリータ・トーレスの歌と一緒に以下に紹介したい。








やはり、どうしてもあの軽快なリズムで聞いてみたい・・・




vendredi 25 janvier 2008

アンリ・ベルグソン、鬱の解毒剤 Henri Bergson, antidote à la dépression


Henri Bergson
(18 octobre 1859 à Paris - 4 janvier 1941)


昨年9月にパリに来て以来、書店の哲学コーナーが生き生きしているのに驚くと同時に、非常に嬉しくなっている。自らを鼓舞するためにある間隔を置いて出かける。それが毎日であったり、精神がしっかりしていない時であったりすると霊感を得ることはできないことに気付いているためである。女子学生が何人かで語り合いながら、何冊もの哲学書を抱えて買い物をしている姿を見るだけで元気になる。もちろん、年配の方が眼鏡をずらしながら求める書を探している姿も味はあるのだが、、。

数週間前の Le Point にアンリ・ベルグソンの特集が出ていた。彼の作品はまだ読んだことはないが、当然のことながら大学の話の中にはよく出てくる。今回 PUF から彼の全作品が新たに出ることになったのを機に、その編集に関わったリール第三大学、ENSで教えている哲学者のフレデリック・ウォルム (Frédéric Worms) さんがインタビューに答えている。

-----------------------------------

ベルグソンは初期にはスターのような扱いであったにもかかわらず、その後完全に忘れ去られる存在になった。彼のコレージュ・ド・フランスの講義は社会的な出来事であったし、レジオンドヌール勲章は最高位の大十字 (grand-croix) を受け、ノーベル賞も受賞している。また、バカロレアで最も取り上げられている哲学者でもある。

彼の哲学の中に choquant な (不快さを呼ぶ?)要素がある。一つは、確立された科学が現実を覆い隠しているという考え、それからその現実には神秘主義の形而上学ではなく、われわれの経験によって辿り着くことができるという考えである。1907年の 「創造的進化」 (L'évolution créatrice) でも同様の考えを展開する。進化の科学を予測不能で創造性に溢れた生命で補完しなければならないとした。それを一つのイメージ 「生命の飛躍」 (l'élan vital) で説明しようとしたため、論争の種となる。

それから政治的な批判も彼が忘れられる要因となっている。第一世界大戦における彼のナショナリズムを人々は許すことがなかった。そこで彼は自らの哲学に妥協を加えたのだ。すなわち、「生命の飛躍」 はフランスに、「物質」 はレジスタンスに、「悪」はプロシアになった。戦後著作をし、国際連盟に関連した仕事もしたが、その時には彼の声は掻き消されていたのである。第二次大戦後は、最早彼の形而上学に興味を持つ人はいなくなっていた。

今回の全作品が再編されて出版されることになったのは、例えば戦後メルロ・ポンティ (Maurice Merleau-Ponty, 14 mars 1908 - 3 mai 1961) が彼の作品について書き、ジル・ドゥルーズ (Gilles Deleuse, 18 janvier 1925 - 4 novembre 1995) が1966年に 「ベルグソンの哲学」 (Le bergsonisme) を発表したことなどが大きい。さらに80年代に入って脳科学や生命科学が進歩し、宗教についても研究が進むにつれ、ベルグソンへの回帰が始った。

彼の哲学がわれわれにとって意味があるとすると、それはわれわれが生けるものであることを理解することだろう。人間のパラドックスは知性にあり、生命の最も素晴らしい成功なのだが、同時にそれは生命を遠ざけることになっている。知性は危険、死、、、を思い描くもので、本質的に抑鬱的なものである。人間は鬱なる動物なのである。十全なる生命に戻るためには、自らの制約や不確実さのみならず、斬新さ、創造性、悦びを取り戻さなければならない。われわれの生命や思想に内在するこの極性こそ現代的な問題である。

ベルグソンの哲学は終着駅なのではなく、自らを発見するために進むことのできる一つの道なのである。



jeudi 24 janvier 2008

パスツール研究所の今年



パスツール研究所にとって、今年は3つの大きな意味があるようだ。それは次の3つの数字と関係がある。

120  100  25

これがわかる方は相当な通になるだろう。ひょっとすると勤めている人の中にも知らない人がいるのではないだろうか。フランス語では以下のように紹介されている。
Lien
120 ans d'existence
100 ans du prix Nobel d'Elie Metchnikoff - père de l'immunologie -
25 ans de la découverte du VIH

1888年11月14日に創設された研究所の120周年
研究所員エリー・メチニコフが細胞性免疫の研究でノーベル賞を受賞してから100周年
研究所員リュック・モンタニエがAIDSウイルスを発見してから25周年

研究所の輝かしい歴史を振り返るよい機会になりそうだ。今年はそれぞれに関係するシンポジウムが開催される。興味のある方は、詳細を別ページに紹介しましたのでこちらをご参照のこと。



mercredi 23 janvier 2008

"Poilu" 毛深い人?



ちょっと見て、どういう意味かわからない言葉があり、その意味が考えていたものとかけ離れていればいるほど印象に残ることがある。今日の例もその一つ。何気なく読んでいたが、毛深い人ではさっぱり通じない。調べてみると、そういう意味もあったが、何と第一次大戦の兵士を指すことが判明。この言葉には la virilité (身体的・精神的男らしさ) の意味が込められているようだ。日本でも同様の捉え方があるのかもしれないが、。

 Poilu : Nom donné aux soldats français de la Première Guerre mondiale

今回、poilus の生き残り二人のうちの一人が110歳で亡くなったというニュースを Orange で見る。この方、ルイ・ド・カズナーヴさんと言い、1897年10月16日生まれなので、もうひとりのラザール・ポンティセリさんより二月ほど年上で、poilu の最年長になる。第一次大戦 (1914-1918) 中は、1916年12月から翌年の9月までセネガルで戦い、戦後は鉄道員になった。シラク前大統領の決定により、国葬級の葬儀が予定されているらしい。

--------------------------------------

Décès d'un des deux derniers poilus de la Grande Guerre

Louis de Cazenave, un des deux derniers "poilus" français, combattant de la Première Guerre mondiale (1914-18), est décédé dimanche, à l'âge de 110 ans, a-t-on appris auprès du ministère des anciens combattants.

Il est décédé dimanche matin à son domicile de Brioude, dans la haute-Loire (centre-est), a précisé le ministère, citant la préfecture locale.

Né le 16 octobre 1897, Louis de Cazenave était le doyen des poilus survivants. Engagé en 1916, il avait fait partie du 5e bataillon sénégalais de décembre 1916 à septembre 1917. En 1919, après la fin du conflit, il était devenu cheminot.

Le dernier ancien combattant de la "grande guerre" en vie est Lazare Ponticelli, né le 7 décembre 1897.

Il aura des "obsèques solennelles de portée nationale", selon une décision prise en 2005 par l'ex-président Jacques Chirac.

  PARIS (AFP) - 20/01/08 14:08

mardi 22 janvier 2008

ある発見、そしていやはや



この週末、仏版のブログに記事を書いている時、その枠外にあった 「ABC」 の文字が目に入る。今までもあることには気付いていたと思うのだが、それが何かを確かめるということはしなかった。私の場合、必要なものにしか目が行かないようで、これまではリンク、写真、フォントしか使っておらず、見えているはずだが意識には上っていなかった。しかしなぜこのボタンを確かめなかったのだろうか。そこにカーソルを合わせるだけでよいのに。日本版にはないので、それはないものと決め付けていたのかもしれない。私の中にはこういう盲点が至る所にあるように感じている。2年以上ブログをやっているが、この週末初めてその恩恵に浴することになった。

何のことはない、スペル・チェッカーである。そして、実際に使ってみて本当に仰天した。とにかく、スペルミスのない記事を探すのが殆ど不可能なのである。言ってみれば、ミスのオンパレード。単純なミスをはじめ、アクサンが抜けているもの、アクサンが付いているが逆向きのもの、アルファベが入れ替わっているもの、二つ続けなければならないアルファベが一つであったり、あるいはその逆になっているもの、英語と綴りを混同しているもの、中には英語をそのまま使っている (例えば、le の代わりに the が入っている) ものまである。自らの状態が酷いものだとは思っていたが、ここまで酷いとは思いもよらなかった。そして本当に単純なミスにも気付かないのである。辞書さえ引いた形跡がないということは、海の外に向けてエイヤーッという感じでやっていたのかもしれない。海の向こうの方は理解していたのだろうか。特殊文字をすべてコピー&ペーストでやっていたという信じられない努力は認めるのだが、、

最近、フランス語が自分の一部を意味するようになってきていると感じているためか、この状態は恰も自らの前を開けて歩いていてそれに気付かない絵に近い印象がある。その状態には耐えられず、仏版ハンモックとその続編の200にもなろうかという記事について夜から訂正を始めた。翌朝になっても終らず目は腫れ上がっている。ただ、この過程で自らの思い違いのパターンがわかってきたという点では得るものはあった。ところで、日本語版にはこのチェック機能がないので、そこに書かれているフランス語にも多くの誤りが含まれているような気がしている。これからもご指摘をいただきたい。



lundi 21 janvier 2008

思わぬ拾い物 "La visite de la fanfare"



先日、メトロでこの映画の広告が目に留まり、いずれ見ようと思っていた。
丁度、大学の図書館から帰る時にその看板が目に入り、見ることにした。


チケットを買って1時間ほどあったので、近くのカフェでメモワールに関係する本を読んで時間を潰す。劇場に戻ると、右ですよ、と言われたのでその通り右に入った。ところが始ってすぐに違う Salle に入ったことに気付く。ヘブライ文字とアラビア文字が出てきたからだ。以前であれば、すぐに出て目指してきた Salle の方へ行くところだが、最近はそこでどんなことが待っているのかという感じで、全く動じなくなっている。そして、それはユーモアとペーソスが軽妙に味付けされた何と言えばよいのか、ほっとするような映画であった。都会とは違い、人間から滲み出てくるものが拡がる空間が広いのである。






エジプトの警察音楽隊の面々が何かの手違いでイスラエルの田舎に迷い込んでしまう。そこで出会うイスラエルの人たちとの一夜の出来事が独特の雰囲気で描かれている。それから音楽がよい。イスラエルのラブソングもアラブの音楽もすべて心に染み入った。私も迷い込んだイスラエルの景色のなかで満たされた時間を過ごすことになった。


------------------------------------

年が明けてから10℃を超えることも珍しくない。
12月で寒さのピークは越えたのだろうか。
日本の場合、2月に向けてどんどん寒さが増していたようにも感じる。
もしこれがパリの冬であれば意外に過ごしやすいという印象である。



dimanche 20 janvier 2008

フランスの哲学は



まだメモワール提出の締め切りがわからないENSのクールを担当されているお二人に先週メールで伺ってみたところ、この月末くらいでいいですよ、と極めてゆったりした返事だったので、今までの張り詰めていたものが一気に緩む。あと1週間くらいは外からいろいろなものを眺めながら、前回同様最後の2-3日で書き上げるということになるのだろうか。とにかく今の段階では書く気が失せてしまっている。どうも締め切りが迫らないとやる気にならない性質のようだ。

ところで、前期最後のクールで先生が学生一人ひとりに前期の印象を聞いていた。私のところに回ってきたので、次のようなことを話した。

「私にとってはなかなかフォローするのが難しいものであった。私はこれまで科学の領域にいたせいか、哲学が孤立してあるのではなく、科学の領域にどのような貢献ができるのか、そのヒントを探そうとしながら聞いていた。その中でアングロサクソンの文献にも接触し、フランスの哲学が明らかに違うことに気付いている。それは、フランスの哲学には功利主義的な (utilitariste) の要素を殆ど感じないということである。私の場合、あることのためにという考えが見え隠れするだけで急に底が浅いもののように感じられてくるところがある。その点フランス人の問題への迫り方は、そのもののだけのために考えているように見え、純粋で奥深いと思っている」

こう言ったところ、その教授は本当に満足そうに深々と頷いておられた。おそらく当っているのだろう。そしてそのことを誇りに思っているのではないかと感じた。「誇り」 という言葉など長い間私の辞書から消え失せていたが、思わずこの言葉が出てきた。これは私の数ヶ月の印象でしかないので間違っていれば訂正をお願いしたいのだが、アングロサクソンの場合には科学の中に実際に入っていて、その問題を哲学するところがある。そのため、今の私には近づきやすいところがあり、科学への直接的な貢献の可能性が高いように感じる。

これに対してフランスの場合は本当に底なしである。それが役に立つのかどうかなどということは一切考えず、言ってみればそこにある問題について何の制約もなしにとにかく考える、何を考えてもよいのである。そして、それをやっている人から滲み出るどっしりとした落ち着きはどうだろう。何のバックグランドもない場合、それをやってこなかった私のような場合、ついていくのは大変である。それを今まで味わっていたようにも感じる。と同時に、その背景がなかっただけにこういう姿勢は非常に刺激的でもあるのだ。



samedi 19 janvier 2008

日仏交流150周年



安政5年 (1858年) 10月9日 (旧暦9月3日) に 「日仏修好通商条約」 が締結された。
今年は日仏交流150周年に当るという。
今まで知らなかったのだが、大使館の方から教えていただいた。
これを祝って、いくつもの催し物が予定されている。
サイトを見てみると、参加してみたいものも散見された。

vendredi 18 janvier 2008

ある年賀状



昨日届いた年賀状の中にこの絵が添えられてあった。手紙の主は、4-5年前に大学を辞められ、今は一書生として絵に打ち込んでおられる方である。日本の大製薬会社の御曹司と伺っている。これまで研究の上ではご指導をいただいていたが、個人的な交流は全くなかった。しかし、私の退官に至る過程やその後の道が書かれてある記念誌をお送りしてから何かが変わったようだ。その時には便箋4-5枚に及ぶ非常に丁寧なお手紙をいただき、今回もカードの裏表にびっしりと想いが綴られている。

先生は毎週絵の講座に通われ、自らも描かれていて、年賀状の絵は毎週昼食をとっていた三宮のレストラン・エスカルゴをモデルにしたと書かれてある。このレストランは昭和27年に開業、残念ながら昨年9月で閉店になったようである。いかにも実直そうな、この道一筋という様子がその表情や姿勢から窺われる店主ご夫妻の姿に、閉店の寂しさや時の流れが感じられる。そして、それはそのまま来し方を静かに思いながらデザートのレモン・シャーベットを前にしている作者の視線の先にあるものとも重なっているような、そんな印象を与えてくれる。手前に狼のような動物が描かれているのを見て、最初は先生からは予想もできない奇抜な発想かと驚いたが、読んでみるとこれは実際に置かれてあった雉を銜えた狼の剥製とのこと。

不思議な繋がりから拡がった世界を前にして、気分が和やかになっていた。



jeudi 17 janvier 2008

Le Grand Robert



現在、いろいろなメモワールを書いているが、この間たびたびお世話になっているのが、フランス語を始めてすぐ (1年以内?) に買ったこの辞書である (当時のハンモックの記録)。


フランス語がいつまで続くのかもわからない状態で、よくもそんなものを買う気になったのか、訳のわからない文字が並んでいるのに何の抵抗も感じないで目を通していることを当時から不思議に思っていた。しかも、英語でもそんな大辞書を手に入れようなどという気にはならなかったからである。しかし、5年経ち、6年経ちしてくると、それが何かの意味を持っているような気になってくるから面白い。今回のような状況では、言葉の源を調べたり、どのような使われ方をしているのかを見たい時などに非常に便利で欠かせない代物になっている。余り早めに決め付けずに、その意味が出てくるのかどうか、あるいはいつになったらそれがわかるようになるのか、ゆっくりと時の流れに乗り、観察しながら行くのも味があるような気がしている。



mercredi 16 janvier 2008

少々お疲れ?



今日は、新しいものを片付けようと思って出かけたが、メトロで待っている時、ホーム向かいの駅名のアルファべを一つひとつ見ようとすると、それが横にぶるっぶるっと踊るのである。こんなことは初めてである。これは相当目がやられているな、と思う。このところの寝不足のせいか、オフィスでも眠気が襲ってきて仕事にならない。今日は早めに切り上げた。

昨日、学生オーケストラの話題を出したばかりだったが、今朝メールを開けてみるとオーケストラ時代の同僚 S氏から近いうちにパリに来るので会いたいとのこと。彼とは2年程前に 「熱狂の日」 音楽祭で声をかけられたが、その時は最初狐につままれたような感じで誰なのかわからない状態が続いた。おそらく数秒だろうが、長く感じられた。むこうが先に声をかけてきたので、私の方は認識されたことは間違いないのだが。あれから2年も経っていないので、今度は間違いがないとは思うが、、。



mardi 15 janvier 2008

少し広いところから



今日は、マスター1年目の仕事をどのようにするのかについての二回目のランデブーがあった。先週は私の考えている計画についてスケッチしたものを提出しただけであったので顔見世になり、今日が実質的なディスカッションの始まりであった。

初めてこの領域に入ってきたのでどのようなテーマについてどのように進めればよいのかということが全くわからずにいたが、とにかく1年間でまとめられそうなものについて書いてみた。もちろん、哲学には考えてはいけない領域はないはずであり、ブランシュヴィック (Léon Brunschvicg, 10 novembre 1869 - 18 janvier 1944) の言葉を待つまでもなく、すでに方が付いていると思われる問題こそテーマになるはずなので余り気にする必要はないのだが、1年間でまとめなければならない (最終的には50ページほどの論文にする必要がある) ためテーマを絞って書いてみた。

«La philosophie est la science des problèmes résolus.»

教授は私のスケッチを読み、他の可能性についても言及しながら私の考えを探っていた。その中で私も気に入ったのは、まだマスター1年目なのでもう少し広い領域を概観するようなところから入っていってはどうか、という考えである。このところの暗中模索の中、とにかく1年目のことしか頭になく、その間でまとめられるようなテーマを選ぼうとしていたのだろう。テーマがどうしても狭くなり、自分自身も窮屈に感じていたのだ。その上、もともとは長い目でゆっくりやりたいと思っていたので、そう決めたことにより頭の中がすっきりしてきた。さらに、関連の研究をしているドクターの学生さんやポスドク数人とランデブーをするようにとのことで、講義を聞いているだけの生活から、研究に向けて少しずつ動き出しているようである。

ということで、さらに幅広い視点からの計画を2週間以内に書かなければならなくなった。この期限は、前期の成績を点けなければならない締め切りがあるためだという。実は試験休みが今週から3週間ほどあるのだが、これで完全に課題処理週間に代わることになった。


ところで、今日顔を出したところは去年の三月に訪れており、そこの秘書さんに促されて私 の書類を置いてきたことがこちらに来る切っ掛けになったところでもある。彼女がそういう言葉をかけてくれていなければ今ここにはいないという点で、私の恩 人と言える人である。一度挨拶をしたかったのだが、確かめてみるとすでに辞められたとのこと。残念な思いで建物を出た。



学生時代にオーケストラで trp をやっていたが、ジャズ研の人に誘われて何度か顔を出したことがある。あるコンサートの出し物の中にブラスが炸裂するように編曲されているこの曲も入っていて、文化の違いからか異常に興奮したことを思い出す。



lundi 14 janvier 2008

音のない世界、そして four to go



本日、やっとのことで本日まで締め切りに延ばしていただいたメモワールをひとつ仕上げ、送ることができた。こちらに来て初めての仕事になった。いつものことだが、最後にもう一度確認すべきところを止めにして出してしまった。後でゆっくり見直すと必ず誤りがあることはわかっているのにである。この書き物をしている時にあることを発見した。

何のことはないのだが、自分にとっては重要なことである。それは、最終段階になり原稿を書こうする時は、部屋で一切音を出さないということである。ものを書いている時だけ音を消すのではなく、今回の場合であれば3日間ほどのすべてに亘って普段であれば聞いているラジオを一切つけないことにしてみた。さらには、パソコンもつけっぱなし、資料もそのままの状態にしておいた。こういうやり方をしたのは初めてになるが、そうすると部屋にいることが恰も自分の頭の中にいるような感覚になり、集中力が増すということがわかった。この間、日本語のパソコンを打っているとフランス語用のパソコンのキーの文字が混じるようになっていた。少しは適応してきている証拠だろうか。

メールを出し終わった後、久しぶりに味わう静かな解放感が沁み出してきた。最初のことになる、そのほんの一瞬を冬の乾いた空気を吸いながら充分に味わった。さらに4つが待ち受けている。The Long and Winding Road か。



dimanche 13 janvier 2008

文章の造り方



現在、ミニ・メモワールをいくつか抱えたままの生活を送っている。この日が本当の最後ですという最後通牒受け取り、やっとその気になってきたが、それができるかどうかはその日にならなければわからない。まさに綱渡りの心境である。

ところで、この過程で文章を書くということについて考えることがあった。振り返ってみて、文章を書くということを習ったことはあるのだろうか。中学、高校と国語の時間に作文をしたことは覚えているが、書き方を習ったという記憶ははっきりしない。もし私が文章の書き方を習った、あるいは文章はこのように書くのかということを自覚させられたのは、ニューヨークにいた時ではないだろうか。

当時私はニューヨークの研究所に勤務しており、研究成果を論文にまとめる作業を最近亡くなられたイギリス人の恩師、EAB 先生(ハンモックでも何度か触れている) とする機会があった。それは、私が準備した原稿を彼が直しながら (殆ど破壊) 書き進むというやり方なのだが、その作業を見て、文章とはこう書くのかという一つの見本を体得することができたように感じた。言葉を選び、言葉の塊を前後に動かしながら文章を作っていく工程は、英語の構造がどのようになっているのかということに注意を向けさせるばかりではなく、文章を構成する部品をどのように組み立てるのかが文章を書くということであるという一つの哲学を知らず知らずのうちに教えられていたようである。当時は手書きで進めるため、それがより具体的にわかったということでもある。それ以来、英語のみならず日本語についてもこのやり方になっていたようだ。もちろん、最初から完成された文章を頭で作り、吐き出した後は一切直す必要がないようにするのが文章の達人だ、という考えもあるとは思うが、、。

当然のことではあるが、フランス語でもこのやり方になっている。部品を用意し、それを自分の中でフランス語らしいと思える文体に合うように配置換えをしながら文章を造っていく。最初から自然に出てくる文体の蓄えがないためにこうなるのだが、当然のことながら時間がかかるのである。それを今必死にやっていることになる。



samedi 12 janvier 2008

写真を撮ること、生きること




昨日の余韻が残っているようだ。これまでに仏のハンモックで触れたこともあるが、意識的に写真を撮るようになったのが2年ほど前になる。それ以前には、撮る時に神経を使い場面を選び、出来上がった後はその時に見る程度で放って置くというのが写真との付き合いだった。それが変わったのは、カメラがデジタルになり、ブログに写真を載せるという作業が入ってきたためである。その過程で気付いたのは、写真を載せる時にその写真を良いと思うかどうかが問題で、撮った時の自分は余り (ほとんど) 問題にならないということである。これに気付いた時、写真の良し悪しをその時に決めるのではなく、とにかく撮ることが重要になってきた。それ以来、未来の未知なる自分に向けて撮るという考えが固まったようだ。

それで気付いたのは、生きることとの関係である。ひょっとすると私の場合、写真を撮るのと同じように生きているのではないか、ということである。まず現在にどのような意味があるのかはわからない。その意味が出てくるのは、いつかはわからない将来である。言ってしまえば、この世を去る時にこれまでのすべての意味がはっきりするのかもしれない。そうすると、今を将来の何かのために生きるということにほとんど意味がなくなるのではないか。意味のわからないものに向かって今を使うこと、犠牲にすることが自分にとってよいことなのだろうか。つまり、その時のために生きる、その時を生きるということこそ、やるべきことなのではないか。いつしかそれが自分に一番しっくりくる生き方になってしまった。そしてその時の意味がわかるのは未来になるということが意識されると、その時に気が抜けなくなったのである。また、その (大きく言うと存在の) 意味を知りたいという想いが強いために、その時に精一杯息を吹き込むのかもしれない。そうすると、すべてがスリリングに見えてくるから不思議だ。

ところで今日の写真にあるチュニス。北アフリカのこの地域にはいずれ足を運んでみたいという想いが再び湧き上がってきている。



vendredi 11 janvier 2008

ブリュノ・カタラノという彫刻家


Bruno Catalano, "J'attends"


毎日の写真を選ぶために、ファイルを何気なく眺めるのがひとつの楽しみになっている。今日の写真も何気なく撮ったものの一つで、展覧会のポスターである。もちろんその芸術家の名前を聞いたこともなければ、その作品を見たこともない。今回この写真を選ぶことになり、ネット上だが彼の作品と考えに触れ、興味を持ったので紹介したい。

紹介の言葉の中に、彼に霊感を与えているテーマが旅であるというのがある。仕事を始めてから旅行者を創り続けている。この写真にもあるように (と言っても今回じっくり見て初めて気がついたのだが)、体の一部が欠けている (フランス語で点線で示すことを表す en pointillés という言葉を使っている) 驚くべき作品を造るようになる。ゴッホが常に鞄を抱えてプロバンスの田舎へと出かけて行ったが、その姿を想うような作品もある ("Le Grand Van Gogh")。彼の作品を見ていると何かを感じるようになるが、今は言葉にならない。作品のサイトにはジャコメッティへの無意識の傾倒があり、人生の賛歌 "Un hymne à la vie" を歌い上げるものだ、という言葉が見られる。

ところで、1週間ほど前からある姿勢をとると腰の背骨 (腰椎?) が 「こりっ」 と音を立てるのに気付いていた。そして数日前、その姿勢に入った時 「ごりっ」 という音を立て (本当に)、強烈な痛みが走った。遂にという感じである。実は数年前同じような状況になり、その時は床に転がり、どんなことをしても全く立ち上がれないという状態が30分ほど続いたことがある。今回は一瞬の痛みを潜り抜け、何とかそこまで行かずに留まった。

今日のテーマの旅と鞄ではないが、いつも外に出るときは鞄を背負って出かけるが、この一月以上の間ミニ・メモワールのこともあり、フランス語用の重いパソコンを入れていて街を移動していた。それに運動不足が加わったのが原因ではないかと疑っている。参考のためにその重さを量ってみたところ、10kgほどになっていた。日本ではこんなことはしないはずなので、やや気負い過ぎていたのかもしれない。それでも成果が出ればよいのだが、未だに奮闘中という有様である。



jeudi 10 janvier 2008

あるフランス人のこと


Frank Stella (né le 12 mai 1936 à Malden, Massachusetts)


20代後半、研究のためボストンで2年ほど暮らしたことがある。研究室のボスは30代前半。そこにパリからおそらく20代は中ごろに入っているかという研究者が加わることになった。彼の名前はJCL。どうして人生はこうも生き難いものなのかとでも思っているように、いつも悩みながら考え、日々を過ごしているようなところを感じ、アメリカの目から見ると異質に見えたものだ。テニスが得意で、球をラケットに当てるのが精一杯の私も相手をしていただいた。また、お前は何も考えないで実験をしているだろう、などと言われたこともある。その言葉の主は彼ではなかったかもしれないが、フランス人であった記憶には自信がある。

その彼がある時に発した言葉が妙に心に焼き付いている。その状況は思い出さないが、人間というものはどんなに年を取っても褒められたいと思っている存在なのだ、という言葉が。20代の若者から見れば40半ばの立派な研究者が、われわれと一緒に実験をする。そんな彼に対して、そんなにしなくてもよいのに、というようなことを誰かが言った時だったかもしれない。先日の指導教授と話をしていて、JCLの立場がある意味で今の自分の状況に似ていると思ったからだろうか。彼のことが懐かしく思い出されたのだ。まだ会える年齢である。何とか会えないものだろうか。



mercredi 9 janvier 2008

リセットする



やや軽い響きを持っているこの言葉を、これまでよく聞いていた。ある瞬間にその意味が襲ってきた。今までいろいろなことをやってきたが、そのすべてをどこかに捨ててしまって全く新しく始めましょうという、その意味がはっきりと迫ってきた。

それは昨日、指導教授との話の中で、これまで科学の世界でやってきたが必ずしも満足のいくものではなかった、ひょっとすると全く満足していないかもしれない、と自分の状態を説明するためにわざわざ 「全く」 という言葉を発した時にその感覚が襲ってきたのだ。それは科学に内在する性質により、限られた範囲で頭を使わざるを得ない状況のまま自らが終るのは耐えられないという意味を込めての発言であった。この時初めて、自らの存在の目盛りをゼロに戻しているということをはっきりと自覚でき、全くの更地に立っていることを全身で感じることになった。まさに無の状態から始めるということで、非常にすっきりした気分でメトロに乗り込んでいた。


今日は外国人学生向けのクール FLE (Français langue etrangère) の前期を締めくくる試験があった。このところ論文をどうするのかだけに頭が行っていて、とても準備する余裕などなかったが、今日の問題はその影響が余りなかった。これまでに習った論理的な文章を書くために必要な表現を自在に使って書く300語のエッセイで、1時間半。こうしてみると、私の頭は長い間の癖で一時期に一つのことにしか使えないようになっているようだ。



mardi 8 janvier 2008

新年、動き始める



大学は今週から新年が明けて動き出している。昨日は、仮の滞在許可証 récépissé というのを申請に行った。仮であることがわかったのは、いつもの通りすべてが終った後であったが。今回で1年間有効なものが手に入ると思っていたからだ。もらって帰ってから許可証をじっくり見て、初めて3ヶ月しか有効でないことに気付く。いずれ健康診断をして正式のものが手に入ることになっているが、フランスらしく3ヶ月以内に連絡が来るという保証もないという情報も入っている。

今日は私の大学初日だった。朝8時半に指導教授とのこちらに来て初めてのランデブーがあった。こちらは相変わらず朝が暗いが、その中を行く時なぜか誰も歩いていない土地を自分が初めて道をつけているような気になるから不思議だ。顔合わせの目的は1年目の論文をどう進めるかだが、まず私の考えているテーマについて10ページほどにまとめるようにとのことだったので、その原稿を持って行った。来週その内容について検討することになる。

今日の科学史のクールでは、4種の動物について記載した文章を4つ紹介し、それぞれが発表された年代順に並べるという想像力の訓練があった。動物をどのように形容しているのかを元に考えるということになるのだが、、。解剖や生理の知識を思わせるような記載があったり、他の動物との比較を主にしているものがあったり、動物そのものを記載しようとしているよりは、ある道徳や宗教観を教えるための喩えとして動物を持ち出しているようなものがあったり、動物に人間の性格を見ているようなものがあったりで、表現の微妙なニュアンスから著者の性格まで想像したりと、結構面白い試みであった。あとでその著者が紹介されたが、アリストテレス、ビュフォンの他、12世紀やルネサンス期の博物学者であった。こういう話を聞く時はいつも、日本では別世界の人か想像の世界の人と言ってもよいアリストテレスやビュフォンなどが非常に近い存在として迫ってくるので驚く。私でもそうなのだから、彼らにとっては自分の先祖くらいに感じているかもしれない。その辺のおじさんのような感じで論評を加えている。如何ともしがたい科学の歴史や伝統の重さを感じてしまう。

ところで前期がもう少しで終ることになる。私は今週が最後ではないかと思っていたのだが、学生の皆さんもよくわからなかったようで先生に質問していた。驚いたことに先生もよくわからず、討論していたりする。こういうところは何とも言えず、よいのである。

前期の終わりといえば、ミニメモワールを出さなければならないのだが、さっぱり筆が進まず困っていた。しかし、この日曜の夕方からやーっとその気になってくれた。1週間で3論文という厳しいことになり、時すでに遅しの感も拭えないが、とにかくできるところまでやるようにと自らに言い聞かせている。今は、その自らが言うことを聞いてくれることを願うばかりである。



lundi 7 janvier 2008

Philosophie et poésie 詩と哲学



2008年が始って1週間もしないうちに、予想もしないことが起こった。昨日紹介したように Goulven さんのブログ oniromancies にハンモックの俳句が取り上げられたのだが、さらにその後丁寧なお便りをいただいた。私の俳句には哲学において最も大切な2つの要素、好奇心と驚きの心が表れており、写真を含めた日本語版ハンモック全体の醸し出す雰囲気とともに気に入っていること、さらにハンモックの中に流れているもののとして、彼のブログのテーマとも共通する詩と哲学があるように感じているという。それを読みながら、まずそういうものが表れているということに驚き、私はひょっとすると詩と哲学を通してこの世界を見、表現しようとしているのだろうか、などという途轍もない思いが過ぎっていた。

自分の中で起こっていることを自分自身がはっきりとした形 (言葉) で捉えていないことがしばしばある。ブログに書き連ねるだけではなかなか見えていない何かがこうした接触で形になることを最初に感じたのは、仏版ハンモックを読んで私について書いてくれた Liguea さんの言葉を読んだ時である。

それは、喩えればこのようなことだろうか。ある人が看板の上に毎日張り紙をしている。それを書いている本人は看板の後ろにいて街行く人の方を眺めており、看板の全体を囚われのない目で見ることができない。ある日、興味を持った人が歩みを止めてその看板を眺め、その中に何かのつながりや法則性を見つけ看板の主に伝えてくれる。そういう時に、自分を外に取り出して眺めているように感じ、そして自分が書き、考えていたことの根に何があるのかが理解できるようになる。それは見る人により、記事を串刺しにする視点が異なっているため、その度に目を開かされることになる。そんな感覚だろうか。

今回の出会いにどういう意味があるのだろうか。今はわからない。ただ、何かを考えさせてくれる切っ掛けにはなるのかもしれない。Goulven さんに改めて感謝したい。



dimanche 6 janvier 2008

Un poète japonais à Paris



新年の挨拶がてらハンモックを覗いてみたところ、つながっていることを発見。驚きとともに気恥ずかしさを感じている。その場所は Goulven さんの以下のブログで、パリの日本人詩人 paul-ailleurs の俳句がそのまま紹介されている。昨年3月にパリを訪問中のある朝、1時間くらいの間に出てきた句 (であることを願うが) である。これらの句については、わたしのブログでもすでに取り上げているもので目新しいことはない。


このブログでは、常識と詩と哲学をテーマにしているようで、「哲学は常識の理性的な説明であり、詩は常識に命を吹き込む表現である」 という江戸時代末期のフランスの哲学者ジュール・ルキエの言葉が添えられている。
" Le sens commun, la poésie, la philosophie ; la philosophie est l'explication rationnelle du sens commun ; la poésie, l'expression animée du sens commun. "

Jules Lequier (30 janvier 1814 - 11 février 1862)

この機会に Goulven さんがブログの中で掲げてくれているハンモックの 「俳句、詩」 の項を読み直してみた。こんなにもたくさんの詩を読み、俳句を書き、そして訳していたのかと単純に驚いている。




samedi 5 janvier 2008

喫煙: スペイン事情



今日は10℃を超えたのではないだろうか。夕方六時でも9℃となっている。ありがたい。部屋を開け放ってシガーを味わいたくなってきた。ご存知のように、こちらでは今年から公共の場所での喫煙が全面禁止されてしまったので、こういう機会が増えるのかもしれない。

先日ル・モンドではスペインの状況が紹介されていた。向こうでは、もう少し緩やかな (moins restrictive) ようで、カフェ、バー、レストランのオーナーの抵抗でそこでの禁煙は未だのようだ。その記事によると、100平米以下のところでは喫煙にするか禁煙するのかの選択が可能で、100平米以上のところは禁煙と喫煙の場所を分けるように決められている。国の責任者によると、2年前に禁煙法を施行してから、職場や公共交通機関での禁煙は徹底されているが、ホテル・レストランでは未だそこまで行っていないという。また、100平米以下では殆どが喫煙を選んでおり、60%のバーなどでは禁煙の場所を未だ設けていないのは残念だとしている。しかし、商売が掛かっているので、この法律では当然の結果だろう。しかも煙草の60%はこうしたところで売られているとすれば、尚更だろう。ただ、この法律の効果かどうかはわからないが、この2年間で喫煙者が10%以上減ったという。今のところフランス流の徹底した法律に変える予定はないようだ。しかし、責任者は経験から言うと、不完全な法律は絶対に守られないものだと結論している。

"Par expérience, une loi partielle n'est jamais totalement respectée."



vendredi 4 janvier 2008

ちょっとした不思議



今日は気温が5℃を超えて、少し気分が緩んでいた。ゆっくり構えることができるということだろう。日本から送られてくるべきものがまだ届いていない。こちらに来てから宅急便がなぜか届かなくなっている。以前にも触れたように思うが、本人がいないと持ち帰って局留めになってしまうのである。しかも毎回その局が違っていて頭痛の種になっている。今回もおそらくそうではないかと疑っているので、トラッキングナンバーを送ってもらい、来週にでも再度調べ直すことになるだろう。

年末から気付いていたが、研究所の前の通りにいつも男が寝ている。お昼はどこか暖かいところに行っているのか見かけないのだが、夜になるとそこに現れ、下から暖かい空気が来るところに陣取って寝ている。なぜ夜だけ外で寝るのか、私にとっては未だに謎である。ところで、今までは道やメトロで横になっている人を見ても何も感じなかったが、仕事をしていない身としてはどこかで将来の自分と重ね、他人とは思えなくなっているところもある。同朋意識とまでは行かないが、、。

これも年末、しかも彼が寝ているすぐ近くで東洋系の年配の男性が、ほぼ毎日寒風吹きすさぶの中画架を立て、周辺の景色をクレヨンで丁寧に描いていた。こんな寒い時に限って外で描かなくてもよいだろうに、いやここで描くことが彼にとっては生きる証になっているのではないだろうか、などと勝手な想像をしながら横を通り過ぎていた。年が明けてからは見かけない。



jeudi 3 janvier 2008

エドガール・モランさんと考える



数日前からサルコジ大統領が年末に行った演説の中に、この哲学者が使っている "La politique de civilisation" という言葉が出てきたことが話題になっていることには気付いていた。いつもの通り、あることが起こっていることはわかっているが、それが何についてなのかを知るだけの時間はなかった。しかし、今日は本来やらなければならないことから気をそらす意味で読んでみることにした。

エドガール・モラン Edgar Morin (né à Paris le 8 juillet 1921)


彼の名前は記憶によく残っている。去年の3月にこちらに来た時にカフェに入り、新聞を読んでいる時に彼の名前で声をかけられ、しかもその新聞の中に彼の名前が出てきたからである。今回はルモンドにあった読者との討論記事に目を通す。以下、彼の意見を聞いてみたい。

まず、文化 culture と 文明 civilisation を区別しなければなりません。文化とはある特定の社会に特有な価値感や信仰などの総体で、文明とはある社会から別の社会へと伝達が可能なもので、技術、知 識、科学、経済などの総体を意味します。この文明が現代においてポジティブな効果よりもネガティブな効果を及ぼしていて、改革が必要とされています。その ことを "une politique de civilisation" と言っています。

私が言うネガティブな効果とは、例えば、大 量殺戮兵器を生み出す科学であり、生物学的操作をする科学です。技術や経済もバイオ・スフィアの質の低下やすべての環境問題に関わっています。個人主義は 個人の自立や責任という点ではよいことなのですが、一方で連帯感の衰退 (le dépérissement des solidarités) にもつながっています。これらがネガティブな現象で、それは 「より多く」 という量的な基準に基づいていることと関係があります。これを 「よりよく」 という質をもたらす文明に改革することが必要になります。

そのためには2つの側面を改革する必要があります。ひとつは地方の再活性化 (la revitalisation des campagnes) です。もう一つは都市を人間的なものにする (humaniser les villes) ことです。この二つの問題がこれまで蔑ろにされてきたというのが私の考えです。

さらに話は続いている。興味ある方は記事に当っていただきたい。ネットをさらにサーフしたところ、彼の講演が見つかった (註:今では削除されているようだ)。そこで問題になっていることをやや乱暴に一言で言ってしまうと、知の総合ということだろうか。具体的には次のようなことを言っている。

細分化された知識、一つの専門についての知識 (la connaissance parcellaire, compartimentée, monodisciplinaire) はわれわれを盲目の知にしか導かない。知るということは、解析するために分解し (séparer pour analyser)、統合するために関係付けること (relier pour synthétiser) である。それぞれの関係を失った専門領域ばかりになると、関係付けようという方向性が失われる。つまり、あるコンテクストの中に情報や知を置いて考える (contextualiser) こと、知を有機的な集合の中に導入する (globaliser) ことができなくなる。意味のある知の条件とは、この la contextualisation と la globalisation である。


つい最近の声に耳を傾けてみたい。
もうすぐ89歳である。
覚えておきたいお姿である。



この話を聞きながら、ハンモックにある思索の跡をしばしば思い出していた。
私がこの数年求めていた核のようなものを確認するような感じもあった。

例えば、次のような記事がすぐ出てきた。

普遍人 HOMO UNIVERSALIS (2007-02-21)
パスカルに自分を見る S'ENTREVOIR CHEZ PASCAL (2007-02-18) 
この記事にあることを、彼も講演で引用している。
Daniel Barenboim vs スペシャリスト (2005-03-10)



-------------------------------------

● Commented by ミコ at 2008-01-04 09:47

体調のせいで家にどっぷり。ポールさんのブログを読む習慣がさらに強まり、程度の低い発言を恥じますが、お許し下さい。

「文明」の1つの問題点として、モラン氏の「連帯感の衰退」指摘はよく理解できます。わたしの所属しているMLの1つはとても仲がいいのですが、その原因は、かつてMLの中心で今は亡き男性の存在です。もめる気配があると、Fさんというその男性の以前の言葉が蘇りたちまち元の仲良しに戻ります。こんな風な小さな「連帯」でも無視出来ませんから、どこかで、誰かがマジシャンのような力を出して世界に「連帯の蘇り」が見られたらなあと空想します。

飛躍続ける中国での目下の「文明」はウオシュレットトイレの普及だそうです。

● Commented by paul-paris at 2008-01-04 18:02

ミコ様
文化と文明。今気付いたのですが、文化という場合、ものを外から見るという視点が入りうるのに対して、文明の場合にはそれ自体に自己完結性と自己増殖性があり、それこそ哲学的な(領域を問わない知の)視点を持ち込まないと非常に危ないのではないかと思います。例えば、科学や技術にしてもそれ自体には考える力はなく、ある技術が見つかると人間の好奇心に基づいてその先を際限なく求めるという性格を内在しています。この見方からすると、文明の文化的視点による批判が常に必要だということになるのでしょうか。

私のブログでさらに体調が悪化しないことを願っております。


● Commented by 冬月 at 2008-01-04 14:12

■ あけましておめでとうございます。いささか、飲みすぎの寝正月です。

「近代」を産みながら、「近代」を批判できる理知の強靭さ。そんなことを欧州人に感じることがありますね。鈴木大拙が、「人生は詩である。真実は『理』法では ない、『詩』的である」と述べていますが、モランの議論は、大拙の言う「詩」的な領域と、ある意味で、重なるところがあって、「近代」を徹底的に批判すると、最後には、「詩」になるような、そんなことも感じます。

● Commented by paul-paris at 2008-01-04 18:22

冬月様
本年もよろしくお願いいたします。それにしても新年早々飲みすぎとは羨ましい限りです。

こちらの哲学者には物事を批判する場合、その論理的な根拠を過去の知を総動員しながら自らの頭で必死に考えるという姿勢が見え、彼らの話を聞いていると大げさに言うと命がけでやっているという気迫が伝わってきます。こういう経験は日本ではなかなかなかったように思います。いつもどこかを見ていて借り物の服をまとい、自らは安全なところにいるというのがはっきりと見て取れますので、非常にひ弱な感じがします。

大拙師の「人生は詩である」という言葉で、以前に読んだマルセル・コンシュという哲学者の "poétiser la vie" という言葉を思い出しました。辞書を見ると人生を美化するという意味になるのでしょうが、それを読んだ時には言葉本来の意味で捉え、おそらくコンシュもそうだったのではないかと思いますが、「人生を詩的にする」と訳し、非常に嬉しくなったことがありました。





mercredi 2 janvier 2008

セーヌ河畔まで



新年二日目

朝の散策も昨日と同じセーヌ河畔までとなった

街は静かに動き始めている




mardi 1 janvier 2008

よい年をお迎えのことと思います



新年最初のお昼の散策を終えたところである。今年はピアニスト、ワレリー・アファナシエフの 「展覧会の絵 Tableaux d'une Exposition」 をお供に、近くの鄙びたセーヌまで。途中、冷たい空気の中、行き交う人の精気を充分に浴びながら。歩調に必ずしも合わないアファナシエフの演奏も、淀んだ精神を鼓舞するには充分過ぎる。久しぶりに体の芯まで響く演奏に接した。ゆったりと流れるセーヌも活力を与えてくれるようだ。

Valery Afanassiev (né à Moscou le 8 septembre 1947)

この年の初めに、ピアニストにして、英語とフランス語で9つの小説を書き上げ、詩を物し、劇作のみならずその演出をもしてしまう、このルネサンスマンに触れたことに何かの意味はあるのだろうか。領域を超え、そして領域を結ぶ。そんな歩みを始めたいとでも思っているのだろうか。あるいは、それは遥かな夢に過ぎないのだろうか。


------------------------------------

今年も折々の観察の跡を記して行きたいと思います。

お閑の折にでもお越しいただければ幸いです。