lundi 25 mai 2015

1年を振り返って(2)

25 mai 2008

今朝は最近の日課になっている朝のバルコンから始める。目を閉じて日の光を浴びていると、体全体が恵みを受けているように感じる。強い日差しを瞼の上に見ながら、この1年のことを振り返っていた。

こちらに来る前、科学哲学以外にもギリシャ哲学、芸術哲学、宗教哲学、現代哲学などの哲学全体を眺めてみたいという想いを抱いていた。その想いはこちらに来てプログラムを見ている時も続いていた。しかし、専門のクールが始り、その内容の豊富さに圧倒されると、専門の領域だけでもどうなるかわからないと悟ることになり、最初の想いはどこかに飛んで行ってしまった。

広く見てみたいという想いは、それまでの専門領域での生活を客観的に見ることができるようになったために生れたものだろう。専門領域を決めた20代前半以降、専門外の分野は横目で見る程度で自らの領域が人生のすべてという生活をしてきた。大半の人は自らの仕事の中での秩序や評価、そこから生れる満足感や失望を抱きながら生きているのではないだろうか。しかし、そこから外に出て世界を眺めるという視点を持つことができるようになると、そこには広大な原野が広がっていることに気付くことになる。わたしの中でのイメージでは、これまで生活して いた専門の世界はその原野に口を開けている穴倉のようなもので、その世界に繋がる口がいくつも見えるというものだ。そして、その穴倉の中もかなりの大き さなのでそれが全世界だと勘違いしてしまうほどである。

私の場合、自らの終わりを初めて実感した時、その穴倉から出てこの広い世界がどうなっているのかを知りたいと思った。これからも自らの領域を突き進んで行くと、いずれ物理的制限が出てきて思うようにならなくなることが予想されたので、早めに一人でもできるところに転換しようという考えもあったかもしれない。しかし、その転換を決意した時には「一線を越える」とか「ルビコンを渡る」という表現がぴったりする精神の動きをはっきり意識できた。今まさに何かを飛び越えたな、という感じである。そして今、新しい1年を終えようとしている。ある意味では、また新たな穴倉に首を突っ込み始めたということになるのかもしれない。ただ、今のイメージは、この広い原野に樹齢数千年にも及ぼうかという大樹がぽつんぽつんと見渡せ、穴倉の中ではなく、新しい大樹に登って広く遠くを見ようとしているようだ。したがって、今までのように横の世界が目に入らないとか目に入れないというのではなく、横の世界も見晴らすことができるのではないかという明るい気持ちを持っている。

この1年間、全くの新しい分野についていろいろな人の話を聞きながら、その外にいては人々の記憶にも上らないだろう膨大な仕事を成し遂げた多くの先人の存在を知り、感動した。その過程で、自らの考え方の癖もわかってきた。それは、自分の考え方が唯一無二であると思いがちなことである。異文化の中で異領域に触れるという状況の中で、心を開く効果が増幅されたようにも感じる。

「定年とは努力しないでルビコンの河を渡ることができる時」と言い換えることができるかもしれない。その先には、仕事という専門の中に身を沈めていたそれぞれが、人間本来の(あるいは、それまで忘れていた)姿に戻るための茫洋たる原野が広がっている。


再びバルコンに出てみた

そこで一茶を経験することになるとは・・・

蠅が手摺に停まり、まず前足を擦っていた

かと思うと、今度は顔を前に倒しながら両の前足で擦っている

その次は後足同士を擦り、そのまま羽根のお手入れ?に入った

それを数度繰り返して私の前から飛び去って行った


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27 mai 2015

当時、初めての年の終わりということもあったのか、真面目に1年を振り返っていたことを知る

このようなことをこの時点で書いていたとは思わなかった

しかし、そのエッセンスは澱のように自分の底に確実にあることが分かる

そしてあるものは、そこから発展して新しい形を得たように見える


上の記事の冒頭のシーンにも同様の思いが湧く

この体験が、その後「瞑想」とか「省察」と名付けることになる精神運動に気付く切っ掛けとなったからである

この点について、昨年エッセイとして書かせていただいた

医療と哲学 第44回 「瞑想生活のある医学」 (THE LUNG perspectives 22 (3): 106-109, 2014)


 時を超えたやり取りは、想像以上に面白い




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