jeudi 11 juin 2015

知のヒエラルキーを乗り越えて

11 juin 2008

まだ終っていないが、こちらの一年目は大変だった。新しい学問領域の考え方の枠組みに付いて行けなかったことが大きい。本を読むと眠くなる一つの理由がこれだったかもしれない。今、教科書の類に目を通し、こちらに来た時のことを思い出してみると、若干の進歩は見られるようだ。当時感じた取り付く島もないまっさらな印象から、若干の陰影を見ることができ、その中に入る手掛かりが得られたように感じるところが増えている。短い間だったが、それまでに凝り固まっていた頭の筋肉を解し、少しだけ柔軟に動かすことができるようになりつつある。その準備運動の期間がマスターなのかもしれない。あと1~2年は必要なの だろう。

一つの専門を持ち、その中に落ち着いてしまうと、それ以外の領域に目が行かなくなる。あるいは、目を行かせないようにする意識的、無意識的な運動が起こる。その過程で、無意識の内に学問の中における序列が生れていたようだ。それは先日のゲルラック氏とコイレ氏の指摘にもあった自分の領域が最高で他の領域を無視する尊大な態度へと導くことになる。その方が楽だからということもあるのか、歳とともにその傾向が増大する。そういう精神状態で、自らの中に生まれた知のヒエラルキーとでも言うべきものを打ち崩すのは並大抵のことではない。まずその存在を意識できるかどうか。その上で、それを乗り越えることができた時、初めて専門の外に広がる豊かな人類の遺産を受け入れる素地が生れてくるのだろう。一学徒となることができた背景には、この過程も含まれていたような気がしている。


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11 juin 2015

知のヒエラルギーはそれぞれの中に生まれてくるはずである

それは、時間とともに誇りと重なるようになることが多いのではないか

これが益々 「その外」 に目を向けることを難しくする

年齢を重ねるほど、inclusive な視点を持つことが難しくなる理由でもある

当時は新しい領域に入ったばかりだったので、内に出来上がっていた知のヒエラルキーに気付いたのだろう

現在では意識せずに inclusive な心持ちであらゆる 「こと」 に向かっているようだ

それは良いこととして感じている





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