dimanche 26 juillet 2015

C.P. スノー 「二つの文化」考 "The two cultures" by C.P. Snow (I)

26 juillet 2008

先日届いた C.P. Snow の名著 The Two Cultures and a Second Look (Cambridge University Press, 1987)を読む。学生時代に訳本を買ったような気もするが、どこか遠くの出来事のように感じていたのか読んだ記憶はない。今回は興味津々で、いつものようにバルコンに出て彼の言葉を追う。第一部 "The Rede Lecture, 1959" の第一章が "The Two Cultures" で彼の基本的な認識が語られている。この発表の3年前に雑誌 New Statesman にスケッチを発表している。またこの本のタイトルにもあるように、初版の4年後の1963年に新たな見解を発表している。こちらは明日にしたい。

著者 Snow は科学のトレーニングをケンブリッジ大学で受け、職業として物書きになったためにこのような視点が得られただけで、同様のキャリアがあれば同じようなことを考えただろうと述懐している。若き日に物理学が花開くのを傍から見ていたことや1939年の寒い朝にケタリング駅で W.L. Bragg に会ったことも大きな印象を残していて、その後科学から目を離すことはなかったようである。その間、文学と科学(文理:literary vs. scientific)の間を行き来するうちに "Two Cultures" と彼が名づけた現象に気付くようになる。それは大洋を隔てたほどの、あるいはそれ以上のものがある。大西洋を渡ればそこでは英語が話されていて話は通じるが、文理の隔たりが行き着いたところではチベット語が話されているようなものだと喩えている。

科学者は未来が骨の髄まで染み付いている (Scientists have the future in their bones)が、文系は本質的に反科学的(anti-scientific)であり、彼らにとって未来は存在しない(The future does not exist)。この傾向は私自身が理から文へ移行する過程で、そのニュアンスがわかるようになっている。自らを振り返っても、科学の未来信仰、楽天性は益々明らかになってくるし、文系はむしろ過去にまず目が向かうように感じている。むしろ、そこにしか確実なものはないという哲学があるかに見える。科学者個人のレベ ルでは必ずしもそうではないにせよ、科学という営みを見た場合には否定しようがない真実がありそうだ。

ここで取り上げられている逸話も興味深い。例えば、話好きのオックスフォード大学の学長がケンブリッジ大学での食事会で会話を楽しんでいる時、その話はさっぱりわからないという声を聞き、驚 く。そこで助け舟を出したケンブリッジ大学の学長の言葉は、「彼らは数学者ですから」 というもの。また、文系の人が考えている "intellectuals" の中には、RutherfordEddingtonDirac も入っていないらしいという話を聞いたというエピソードもある。それから、彼の観察によると文理の乖離は特に若い層で大きく、時には敵意にも近いものを感 じると書いてある。理の方に勢いがあり、文に比して就職率もよい。当時は物理学が理を代表していたのかもしれないが、それが今は生物学に置き換わっただけで、その本質はほとんど変わっていないかに見える。いや、むしろその程度が激しくなっているかもしれない。文系の人に熱力学の第二法則は?と聞くといやな顔をされるが、同様のことは理系の人にシェークスピアを読んだことはありますかと聞いた時にも起こるのだろう。

このような文理の分離がなぜ問題なのか。それは単に残念なことというだけではなく、もっと酷いものだと彼は考えている。それは二つの異なるもの、異なる原理、異なる文化がぶつかり合うとこ ろにしばしば創造の機会が訪れるからだ。しかし、その二つが出会う機会がそもそもないのである。これは双方にとって、われわれにとって大きなものを失って いることになる。この点は自らを振り返っても痛いほどわかる。もし科学哲学における厳密な思考方法について少しでも知っていたら、過去の科学者がどのよう に問題と対峙していたのかを知っていたら、仕事の進め方が変わっていたかもしれないという具体的な影響を想像できるからだ。

この書では、二つの文化の問題はイギリスに限らず西洋すべてに行き渡っているとしているが、東洋でも例外ではない。その意味では人間の頭の働き方の普遍性を示して いるもので、半世紀を経た今でも傾聴に値する声だろう。20世紀には両者の接触が見られなかったが、21世紀にはそれが可能になるのだろうか。その真空地帯に足を踏み入れてみたいという思いが湧いているのを感じる。





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