mercredi 9 septembre 2015

ロバート・ハッチンズ 『偉大なる会話』 のこと "The Great Conversation" by Robert Hutchins

9 septembre 2008
 


昔を振り返るようになった数年前から、ある考えがぼんやり浮かんでいた。それは、私が今のような道に進むことになった根のところにある一つのものが、実はこの本との出会いだったのではないかというものだ。この夏再会した本の中にその姿を確認した。

     ロバート・M・ハッチンズ著 『偉大なる会話』 (田中久子訳) 
     (1956年初版第1刷、写真は1965年第8刷、300円)

著者のハッチンズは30歳でシカゴ大学の総長になった人で、古代ギリシャに始るヨーロッパ精神を学ぶ重要性を説いている。その一つの方法として、ヨーロッパ の思想家が著した彼の言うところの「グレート・ブックス」180冊余りを読むことを薦めている。序文は、当時の東京大学総長南原繁が書いている。訳者はシカゴ大学で心理学を学び、出版当時は東京で大学院生をしていた田中久子さん。

この本を買ったのは大学に入った年の夏になっている。そして、その中にあった「リベラル・アーツ」という言葉に心躍っていたことをはっきりと思い出す。その言葉には生きる力を自分の中から引き出してくれるような不思議な魅力が宿っていた。当時は専門家を離れて人間として鍛えながら生きましょうという言葉に同意はするものの、端からその実行など叶わないものだと決めて掛かっていたようだ。


以下に、傍線が残っているところからいくつか。

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・・・エール大学医学部のH・Sブア Burr 博士の言う通り、「科学の素朴な仮定の一つは、われわれは秩序ある世界に住んでいる、ということである。その秩序とは、解明することができ、また相当に正確な定義を与えることのできる基本的法則の運営によって決定され統御されている秩序である。この仮定は、形而上学---人間の知性によって会得され、人生問題解決に有効に利用されうる普遍的法則の体系---の存在を肯定するものである。」


 決定的な誤りは、どんなものでも他のものに比較してみて、より重要であるということはないという考え方、また善なるものの間に序列はありえないし、知的領域においても序列はありえないという考え方にある。そこには中心になるものもなければ従って周辺に来るものもない。第一義的なものもなければ、第二義的なものもない。基本的なものもなければ、外面的なものもない。すべてをつなぐ紐帯となるものが存在していないために、教科課程は支離滅裂である。その善悪を判断する規準を持ち合わせていないために、枝葉末節、凡庸、職業主義などというものが幅を利かせる。健全な課程に取って代わるものとして、われわれは、人柄(パーソナリティ)、「人物」(キャ ラクター)、偉大なる教師などといった教育無用論のスローガンぐらいしか提供するものを持ち合わせていないのである。
 ここで哲学は、高等教育では二重の役割を持つことが理解されるであろう。教育者は自分たちの哲学観によって、どのような教育を施すかを決定する。学生はまた哲学によって、自分の道徳的、知的、精神的基礎を築かなければならない。私もまた哲学によって、教育の目的は叡智と徳性にあり、この目的にわれわれを接近させないような学科は、大学に設置されてはならない、という結論に達するのである。


 学生に社会的責任感と責任遂行の欲求を持たせたいと思うなら、この目的達成のためには、何はともあれ歴史、哲学の教育、そしてこれらの分野を理解するに必要な訓練をその学生に施さなければならない、ということである。


 そこでわれわれは社会批判と社会活動の規準を持とうとするなら、またそれが感情的な規準に堕することを防ぎたいと思うならば、その規準は哲学や歴史の研究、またこれらの分野でまともに思惟する習慣から出てこなければならない。



  情緒主義とは、同胞の役に立ちたい、という非合理的な欲望である。それは時に思考力を持たない人、あるいは思考しようとしない人々に取っては、気に入りの、また救いとなる特性としてあらわれる。しかし、情緒主義者は実際には危険人物である。かれは自分の誤謬を指摘しかねないあの知性というものを信頼しな いのである。かれは自己の意志こそが何よりも優先すると信じているが、実はそのことが彼を危険に陥れているのである。かれは一体何を欲すべきか、ということを知らない。またどういうわけでそうしたものを欲しがっているのか、ということが分からないのだ。


 大学は、学習に興味を持ち、かつその素養のある学生だけを収容すべきである。もしも、国家と教育制度の理想が、理性に照らして編みだされた公共の福祉にあるのなら、職業教育は大学から姿を消すであろう。現在の世界情勢に関する詰め込み式知識を授けるためにだけ設けられた学科も共に姿を消すであろう。・・・・
 この知的課題というのは大体次の三分野に分けられる。形而上学的・神学的と呼ばれるものも包含するいわゆる哲学的な基底に横たわる諸問題、医学・工学の問題をも包含した科学的な諸問題、法律・行政の提示する問題を包含した社会科学の諸問題、の三通りである。


これらの書物には単に伝統そのものが含まれているだけでなく、伝統の偉大な解説者たちもそこに含まれているのである。かれらの著作は、芸術と、自由学芸(リベラル・アーツ)の典型であり、ホワイトヘッド Whitehead の言う「偉大さの永続的な幻影(ヴィジョン)」をわれわれの前にさし示すものである。それに鼓舞されて、あらゆる時代の人々は自己を自己以上の存在にまで高めてきたのであり、だからこそこれらの著述は存続したのである。R・リヴィングストン Livingstone は、「われわれは、日々の大部分を凡俗なものに縛りつけられている。このような状態にある時こそ、偉大な思想家と偉大な文学に触れることが大切である。たとえかれらと交わっても、われわれはなお俗世間の中にあるのだが、それは姿をかえ、叡智と天才の目を通して観られた俗世間である。かれらと交わることにより、かれらのヴィジョンのあるものがわれわれのものとなるのである。」と言っている。


 といっても、大著述(グレート・ブック ス)には全然難解な点がない、というわけではない。アリストテレスがいったように、学問には苦痛が伴うものである。ある意味においては、どの大著述も常に 読者の頭の程度を上回るものである。つまり、読者がその書物を完全に理解しつくすということは決してないであろう。だからこそ、大著述は繰り返し読むことができるのである。まただからこそこれらの書物は偉大な教師なのである。つまり、大著述は読者の注意力を要求し、読者の知力を終始緊張させるのである。


  ここでわれわれが提唱しているのは永続的な自由教育である。たとえある個人がその青春期に最上の自由教育を受けたとしても大著述(グレート・ブックス)と 自由学芸(リベラル・アーツ)を通じての永続的教育はかれの義務として残るのである。子供の時に一生涯持続するような教育を貯蔵できるはずはないのだから、青年期にかれのなしうることはその生涯を通じて自己を教育しつづけることを可能ならしめるような訓練と習慣を身につけることである。不断の成長は知的生活にとって不可欠である、というジョン・デューイの言葉に同意せざるをえない。


 それにしても、ここには重大な問題が残されている。われわれは何を目標として生きるべきか?よき人生とは何か?どうすればよき社会を実現させることができるのか?将来の迷路の中を導いてくれるものと して、われわれは歴史、哲学、文学、美術から何を学びとることができるのか?
 これらの問題は大抵の場合自由学芸(リベラル・アーツ)、人文科 学、社会科学などに伝統的に委ねられている領域に属する。もしこれらの書物を通じて、あるいは他の方法を通じて、世間一般の成人たちが、これらの諸問題を 重要だと考えるようになり、この部門の学者たちが実際にこうした問題と取組み、国中の多数の家庭でこうした問題が議論されるようになったら、次のふたつのことが起こるであろう。まず、知的にすぐれた若者、思想をもった若者がこういう問題の研究に一生を捧げることは、ちょうど今日、科学者や技師になることが 尊敬に値するのと同じく、尊敬に値することとなるであろう。そしてさらに、自由学芸の学部や人文科学や社会科学の学者たちは、必要とするあらゆる援助を受けることができるようになるであろう。

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力が湧いてくる言葉に心躍っていた昔が蘇ってきて、つい長くなってしまった。彼の考えに見られる、こうあらねばならないという強い立場に少し抵抗はあるものの、そのエッセンスにはほとんど賛成である。しかし、問題はなぜ彼の予測が外れているように見えるか、ということだろう。この現実を前に一体どのような問を発すればよいのだろうか。非現実的には、仕事をすることを止めると彼の言うことがよく分かるようになる、とは言えるだろう。自分がそれを実感しているからだ。その時、本当になぜ生きているのか、という問にぶつかるだろう。これは何度も引き合いに出しているが、この世はすべて気晴らしであるというパスカルの観察が的を得ているように感じる。人はその気晴らしの中で一生を終えるのだ。しかし、その気晴らしを取り払った時に頼ることができるのは、ハッチンズも語っているように人間に対する知になるのだろう。いや、仕事を辞めなくとも、一旦、今いる立場を離れ、自分の専門を離れて見ようとする時、この問題が目の前に現れるだろう。そういう意思こそが、哲学に導くのかもしれない。新しい世界を開く力をわれわれに与えてくれるのかもしれない。そこに至るためには、どうしても非日常的な世界に身を置くことが必要になるような気がする。非日常の中にこそ、日常を豊かにする何かが隠されているように感じる。物理的にも、頭の中だけでも 「離れよ!」 ということがそのためのメッセージだろうか。そういう立場に身を置く意思の持ち主が増えない限り、気晴らしの中で生を全うしようとするだけでは満足しない人が増えない限り、この状況は変わりそうにない。


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mardi 8 septembre 2015

哲学を専門とする人は、いつの時代でもマイノリティである、という言葉には真理がありそうだ。哲学にはどこかとっつき難さがあり、それがなくても不自由なく生きていけるからである。一方、哲学や文学を含む自由学芸に触れると言った場合、それほどの抵抗感はないのではないだろうか。ただ、その対象が古典という ことになれば、話は少し違うのかもしれない。古典の場合、現代人の書とは違い、理解するための時間が必要になる。そのため、忙しい現代人が面倒だと感じても何の不思議もない。

記事にも書かれてあるが、この本を読んだ時に抵抗を覚えた理由の一つに、どこか上の方からこれは読まなければ駄目ですよ、と諭されているように感じたことがある。それ以前から「必読書100冊」などと銘打たれると、それだけで読む気が失せるところがあったからである。 これはすべての人の理由になっているとは思えないが、上に挙げた理由とともに何らかの影響を及ぼしているのではないだろうか。いずれにせよ、ハッチンズ博士の主張が広がっているようには見えない。

その道になぜわたしが入ることになったのか。それは、古典の中にしかわたしが求めるものはない のではないかという直観のようなものが生まれ、その道を歩みたいという全身から湧き上がる熱を感じたからである。人から言われるのではなく、この身の中から純な姿で現れたからである。このようなことはひょっとすると生まれて初めてのことだったかもしれない。そうなると、止まるところを知らなくなる。それは嬉しい大転回であった。

そこには、ほぼ半世紀前に出遭い眠っていたものがその眠りから覚めて蘇ったという風情がある。その出遭いがあったからこうなったとは言えないのだろうが、こういう繋がりが見えてくるのは実に味わい深いものがある。







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