jeudi 1 octobre 2015

Soutenance で頭と心が洗われる

26 septembre 2008

 
 

昨日の夜に準備をする予定であったが、いつもの通り全く別のことを始めて時が過ぎていた。今朝は外でまとめるをするために早めに起きて出かける。1時間ほどの時間ができたが、結局ぶっつけ本番の状態となった。

Jury の一人はすでに会ったことがある人で、朝一緒になった。彼は学位を取った後しばらくブルターニュの方の大学で働いていたが、最近Paris 4に職を得たことを指導教授のイントロで知る。soutenance は予定通り、10分程度でエクスポゼした後2人からコメントがあった。まず指導教授から、こちらに住んだこともなく、フランス語を(そのお年でとは言わなかったが)始めてまだ時間が経っていない割にはしっかりしていて、来た当初よりよくなっているが、まだフランス人のフランス語にはなっていないとのこと。アメリカに住んで4年目で英語の感覚が肌にぴったり来るようになったことを考えれば、まだ1年であの時の感覚には程遠いものがあるので当然だろう。いずれにしても、研究論文を見てくれるフランコフォンを探さなければならないだろう。それから自らの専門を終えた後にこのような哲学的試みに挑戦しようとするその心に敬意を表していた。その後、質問とクリティークが続いた。どれも問の内容が深く答えるのに汲々としていたが、これからの私の歩みには考えておかなければならないものばかりで、非常に貴重な時間になった。

それからもう一人の方に話は移った。彼の話振りは、歯切れよく、弾んでいて、若さと真剣味に溢れるもので聞いていて気持ちがよい。まずフランス語について同様のコメントがあった。それから、普通のメモワールでは単にある事柄について淡々と(「客観的に」)書き進めるだけだが、あなたの場合には自らの存在がテーマと密接に関係しているのを感じたとのこと。これまでの経験がそうさせているのだろう。その後言葉の定義が問題になり、本当にその言葉をどのように考えているのか、あるいは哲学領域では明らかに違う意味で使われている言葉があるので変えた方がよいのではないか、などの指摘があった。途中、あなたの考えには同意しかねるが、それはよいでしょうというコメントがあったが、soutenance は自らの考えを説得する場ではなく、どのような理由でテーマを選び、どのように考えて行ったのかを明確に説明し理解してもらう場であることを物語る発言になるのか、などと納得していた。

さらに、以前に話をした時に薦められた本を読みましたか、という質問があり、買ってはいたがまだ棚の上にあり、2年目のテーマに関係してくるのでこれから読もうとしていると答えると、指導教授からは思わず笑みが漏れていた。実は、当初はその分野についても取り上げるつもりでいたが、1年目の手には負えないと考え、先送りしたものだった。このようにはっきりと指摘してくれるのは非常にありがたい。そして、その本の著者には会ってディスカスすることを薦められた。それから、ある科学的な問題に対した時にその中で哲学で問題になっているテーマとどのように関連付けるのかがこれから課題になるだろうとの言及があり、改めてそういう意識で考えていかなければと思っていた。つまり、私の書くものが単に自分の考えを並べるだけの感想文であり、哲学論文にはなっていないではないのかという疑念が常に付き纏っていたので合点がいったということになる。最後に私のメモワールに全面的にコメント・クリティークを書き加え、校正までしてくれたものを渡してくれたが、これには感激した。

全体的に見ると、私の考えは科学の側面を抑え、哲学的な面を強調しているのではないかとの印象をお二人とも持たれたようである。科学の背景を持っている人間が哲学に入ってきた時にそうなるのもわかるが、それを抑えるよりはもっと生かした方がよいのではないかという指摘である。これには同意せざるをえなかった。これからどのようにこの両者のバランスを取って行くのかが問題になるだろう。

すべてが終ったのは1時間後で、それから二人は別室に移り評価をしていたようである。数分後に戻ってきて、メモワールは合格と認めるとの言葉をいただいた。そして、これからさらに研鑽を積むようにとの言葉があった。例の再試の結果はまだ入っていないが、M1の大きな山は越えたような印象を持った。最後に、フランスの環境はなぜか哲学的思索を誘い、その思索を深めるのには最高であるという感想を伝えると、指導教授からそれは非常にありがたい(gentil)言葉だが、私はそれほど(フランスの哲学状況を?)楽観的には見ていないとの返事であった。

これは全くの余談だが、若手の方と雑談をしている時、フランス語と格闘しながらこのメモワールを書くのは大変だった、お陰で髪の毛を大量に失うことになったと話したところ、それはフランス語とは関係ないでしょう(フランス語はそんな悪さをしません)との返事が返ってきていたが、そうとはどうしても信じたくない気持ちを確認していた。


この間、これからにつながりそうな透明な時間が流れ、それを充分に味わっていた。



-----------------------------------
1er octobre 2015

この記事を読んでいると、スートゥナンスの光景が蘇ってくる。当時は、フランス語の中にどっぷりと浸かり、格闘していた様子が窺える。また、科学の方向では なく、哲学の方向に無理に向かっているように感じるとの感想を持たれたようだが、その背景には哲学とは如何にあるべきかというイメージが固まっていなかったからだと思う。

実は、科学と哲学との関係については、未だによく分からないところがある。科学から哲学に入ってきた身として、哲学、それも形而上学のような科学から遠いところにある領域がどういうものなのかに強い興味を抱いている。余りにも科学的であろうとする今の流れに強い抵抗を覚えているというのが、この8年余りの総括になるだろうか。従って、所謂科学哲学と称する領域が問題にしているテーマにはほどんど興味が湧かないのである。それは今日やっとのことで纏めたテーズの視点にも表れていると強く感じた。

あれから7年経っている。自分では気付かないが、その傾向にかなり年季が入ってきているのではないかと想像している。それが今の研究者に受け入れられるのかどうか、極めて疑わしい。しかし、その点については気にしてはいないのである。







Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire