mardi 1 décembre 2015

寂聴源氏、そして今日から師走

1er décembre 2008 



昨日は午後から読むべき資料を持って出かけた。雨の中を。寂聴ファンの方から借りた寂聴源氏の文庫本を出がけに手にしたのが運のつき。メトロの中で読んでいるうちに面白くなっていた。サン・ドゥニで降りてカフェで数時間、予定を変更して雨音とガラスを伝う雨粒の動きを偶に眺めながら読むことになった(余談だが、雨粒は生きていた)。潜在する意識の中に 「<a href="http://paulparis.exblog.jp/7607161" target="_blank">日曜に日本語の本を</a>」 を実践しようとする気持ちがあったのかもしれない。
恥かしながら、日本が誇るといわれるこの物語を読むのは初めてになる。以前に川端康成が源氏などは少し真面目に読むと誰でも読めるようになりますよ、というようなことを話しているのを聞き元気が出たことがあり、いずれ原典に当たらねばと考えていた。










その時はなぜか仏訳 Le Dit du Genji を仕入れているが、手つかずのままだ。こういう話題の時には、CP Snow が 「二つの文化」 で出した例を思い出す。文科系の人に熱力学の第二法則は?と聞くと嫌な顔をされるが、それは理系の人にシェークスピアを読んだことがありますかと聞くようなものであるというものだが、日本ではここに源氏物語などが入るのかもしれないなどと考えていた。

ところで読み進んでいるうちに、平安時代の生活の中にある音が印象的に聞こえてきた。それは人工の音が日本に比べると少ないこちらでの生活で、日頃から自然の音を感じていることがあったからかもしれない。それから人間に内在する生々しい感情や時に残酷にも見える他人を観察し評価する目、それらが生み出す複雑な人間関係など、興味が尽きない。おそらく今の日本人にも見られるだろうこれらの営み。出家した身であれば自らの感情を擦り減らすことなく遠くから見ることができるのだろうが、、。訳がドライなためか、読むのにも苦労しない。しばらくは楽しめそうである。




ついに今日から12月に入った。墓場にまっしぐらというくらい時の経つのが速い。まとめるべきミニメモワールもテーマは決まってきたが、未だ手つかずである。さらにM1の2倍は書かなければならないメモワールも待っている。今月はこれらに掛かりっきりになりそうである。




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mardi 1er décembre 2015


今回、改めて1968年10月18日放送の「川端康成氏を囲んで」という放送を観直してみた。

まず、最近では見かけることのない個人の間の礼儀正しい距離感に打たれる。

このような姿勢はいつの間にか失われ、個人の間がだらしなくなっているように見える。

アメリカの影響なのかどうかわからないが、砕けすぎているように見えることが多い。

幼くなり、個人として対するという相手に対する真剣さや敬意が消えているのではないだろうか。

恰もそれが良いことのように。

 

今年も最後の月に足を踏み入れたことになる。

当時はミニメモワールを意識していた様子が伝わってくる。

同じく7年後の今日は学生生活の総仕上げとも言えるスートゥナンスが来週に迫っている。

大変な段階に入っている。

これがどうように終わるのか、全く分からない。


川端氏の仕事振りについて三島由紀夫氏が解説していたのを聞き、一つの考えが巡っていた。

何かに向かう時、やたらと騒ぎ立てるのは余り美しいことではないというものである。

大変だとか、やる気にまだならないとか、苦しみの結果終えることができたなどということである。

孤独の中で苦しんで書いているだろう川端氏もそれは当然と言わんばかりに涼しい顔をしている。

書くことを仕事にしている人にとって、これは一つの美学になるのだろうか。









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