vendredi 4 décembre 2015

クールの後、リチャード・ブリアン氏のセミナーを聴く

4 décembre 2008
 


今朝も雨の中、朝一番のクールに出かける。今日はなぜか学生さんが3人だけ。ストがあったわけでもないので理由は不明。私も積極的に参加しないわけにはいかない状況になった。今日は20世紀初期の遺伝学の黎明期のお話で、ショウジョウバエを使って大きな貢献をしたトーマス・モーガンの論文をいくつか読む。Scienceに発表された2つ論文は非常に機械的な記述に終始するもの。ひとつは1ページにしか過ぎない。1953年にNatureに発表されたワトソンとクリックの遺伝の物質的基盤に関する論文に見られる "understatement" のことを思い出していた。コロンビア大学に勤めていた彼は、毎夏マサチューセッツにあるウッズホール海洋研究所で研究をしていたようで、この論文はそこから投稿されたことになっている。

それからモーガンの1933年のノーベル賞受賞講演を読むと、遺伝学で問題になる遺伝子がどのように調節されているのかについての可能性が鋭く的確に捉えられているのに驚く。その論理の流れに全く古さを感じなかった。さらに、医学と遺伝学との関係についての考察を読むと、遺伝子に問題のある人を排除するのが将来の医学の仕事になるだろうという考えまで書かれていて、大きな問題が内包されていることを知る。

ナチスによる優生手術は2年間で10万人が対象にされたが、アメリカでも同様の手術が10年程の間に7万人に行われていたという。人間はその知力に関係なくこういうことを考える存在だ、ということだろう。歴史は、状況によって人間がどんなことでも成し得る存在であることを教えてくれる。これからこのような考えが再び生まれないという保証はどこにもない。一度起こったことを自分の中で反芻しておくためにも歴史を学ぶということには大きな意味があるだろう。そんなことを考えながらゼミに参加していた。


午後からは英語の世界になった。アメリカ、ヴァージニア工科大学のブリアン氏が分子生物学は還元主義の色を薄めているか、という問を立て、シドニー・ブレナー氏がモデル動物として確立した線虫についての研究経過をマイクロRNAの発見まで辿りながら考えを発表していた。会場にはパリの科学哲学を代表する主要な方が集まっていて、熱気に包まれていた。文系の発表は自らの論文を読みながらすることが多いが、今日もそうであった。理系ではまず見られない光景だ。

本題に戻ると、遺伝子にはその産物を作るところまでの情報はあるが、それから先を決めることはできない。つまり、タンパク質がどのように振舞うのかまでは遺伝子の支配は及ばず、その場を取り巻く状況に依存することになる。ただその場合でも、現象をどのように解析するのかについては還元主義の色が強く残っているように思う。単に焦点が遺伝子から離れただけではないのかと訊いてみたが、その点には同意していた。そのため軽度に還元主義から離れつつあるという評価にしたとのお話であった。私が求めている全的("holistic")なアプローチは可能になるのだろうか。それはシステム生物学が目指している方向になるとのことであったが、私の眼から見えるとそれにしても還元主義を逃れることはできないように見えるのだが、、。




セミナーの前にこじんまりしているが趣のある英語の本屋さんを見つけた。そこに入るとル・コルビジュエの伝記が飛び込んできた。著者によると、これまでこの芸術家の作品についての本は多数出ているが、まともな伝記は出ていないようだ。写真が何気なくふんだんに使われていてそれだけでも楽しめそうだが、その上読みやすい。また英語の世界からフランスを見るという楽しみもある。

Le Corbusier : A life  by Nicholas Fox Weber

彼に興味を持ったのは、私がこちらに来る前にA氏から届いたメールからである。そのメールによると、私の書いたものを読んでいるとこの芸術家のことを思い出したというのだ。それまで作品は少しは知っていたが、さらに詳しく知ろうという気にはならなかった。A氏の観察以来、もう少し知りたいと思うようになったようだ。

芸術家はその作品で、しかもその作品だけで評価すべきだという見方がある。この見方はある意味ではプロフェショナリズムに根ざしているのだろう。そういう立場に立つと、プロフェショナルと自らが考えているところから離れるとすべてが終わってしまうと考えがちになる。しかし、本当にそうだろうか。この世はプロフェショナリズムだけで成り立っているわけではない。この人生はそんな浅いものではないだろう。・・・そうではないはずだ。彼がどのような人生を送ったのか、どのようなことを考えていたのか。それを知ることによって広がる地平は計り知れないような気がする。科学の歴史を学んでいると同じようなことを感じることがある。それまで平面的にしか見えなかったものに奥行が加わってくるのである。それを知るだけでも生きる意味があるとさえ思えるくらいのものである。大袈裟ではなく、そう感じる今日この頃である。



今日はどっぷりとこの時、この場所に浸ることができた。先日蔵王の山荘にお邪魔した 折、S氏からお土産にいただいたワイン・オープナーに初めてお世話になった。触れ込み通り、ただハンドルを下げて上げるだけで終わりという優れもの。これ からお世話になる機会が増えそうである。



--------------------------------------------------
samedi 26 décembre 2015



モー ガンの論文を読んだ時、頭の中がすっきりするのを感じたことを思い出す。「論理の透徹さ」とでも言うべきものを読み取り、感動に近いものを感じたのだろ う。しかし、その考えには違和感を覚えずにはいられなかったのだ。一見論理的に一貫しているような提示に対しても内から僅かであれ違和感が生まれているのを感じ取った時、どのように対処するのか。それを考えることが重要であることを教えている。つまり、その違和感を自分の中の「出来事」として捉え、それに誠実に向き合うことが必須になるということである。

人間、さらには人類が誤りを繰り返さないという保証はないばかりではなく、最近ではそれは必定であるとさえ思うようになってきた。自らが危機に瀕する時、相手を優先することができるだろうか。そのような状況が生まれた時、殆どの人間の選択は限られてくる。それ以外の道がないことは、歴史が教えている。

この記事で、もう9年ほど前になるル・コルビジュエさんとの繋がりを思い出した。想像だにしていなかった繋がりだったので、心底驚いたのである。いろいろな人の感受性から受ける霊感は計り知れない。







Aucun commentaire:

Enregistrer un commentaire